Ty HassyのProgressive Innovation

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利己的な心と思いやりの心の二つの矛盾する源泉② — 共感力は進化の証

皆様、新年あけましておめでとうございます。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

本日は、約束通り、昨日の大晦日のつづきであります。

 先の投稿で、宮沢賢治の『よだかの星』のお話をご紹介致しました。自分が生きて行く為に、毎日沢山の虫が自分の口の中で悲鳴を上げて死んでいくのに耐えられなくなった夜鷹は、もうこれ以上、自分のための犠牲者を出したくないと思い、食べることを止めて、ひたすら夜空に向かって飛び続けて、最後は星なった、という悲しくも美しいお話です。
 これは、夜鷹に限らず、我々人間も含めた、全生物が抱える根源的な問題に焦点を当てた物語です。つまり、生きるということは他者を犠牲にするということであり、他者を犠牲にしたくないという他者を思いやる気持ちと、自分が生きて行く為には他の生物を食べて行かざるを得ないという事実は、根本的に矛盾するものであり、他者に対する思いやりの度合いが強ければ強いほど、その葛藤による苦しみは大きくなるということです。
 我々が普段こころ穏やかに暮らせているのは、そう言う根源的に厳しい現実から、目を背けて、知らないふりをして、とぼけているからに過ぎません。
しかし、もし夜鷹のように、他者の苦しみを自分の苦しみのように感じ、その事実から目を逸らさずに正面から向き合おうする人がいたとしたら、その人生は葛藤と苦しみと悲しみの連続になるに違いありません。
 しかし、そもそも、自らの生存を否定することにつながるような、他者を思いやる気持ちというものを、なぜ人間は持っているのでしょうか?弱肉強食が自然の摂理であるとすれば、人間の持つそのような他者を思いやる気持ちは、明らかに自然の摂理に反するものであり、それを否定するものです。
 「自然の摂理に従って進化してきたはずの人類が、それを否定するような思いを持つに至ったということは、一体どういうことなのか?」これは人類最大の謎であると言っても過言ではない大きなテーマであると思います。…と前回大風呂敷を広げたので、今回はその後始末をしておきたいと思います。

 そもそも、他者の気持ちを自分に置き換えて推量する能力、つまり「共感力」と言われるものは、類人猿やイルカなどにも見られるようです。脳科学的にはミラーニューロンという神経細胞が、他者の行動に対し自らの行動と同等の反応示すことが分かっており、それが「共感力」の源泉ではないかと推測されています。
 類人猿も確実に他者の気持ちを推測できる能力を持っている、これは実験的に確認されています。しかし、まだ分からないことも多く、犬の情緒豊かな反応の源泉など、まだまだ解明されていないことも数多くあるのも事実です。いずれにしても、「共感力」と言うものは人類だけのものではなく、生物が高度に進化した結果として獲得した能力であることは確かなようです。
 ただ、人類であっても、育った環境や先天的な理由によって、「共感力」が失われている場合も少なからずあるようです。例えば、凶悪犯罪者や横暴な指導者に多いサイコパスと言われる人たち、他者の痛みを一切に意に介さない彼らによって、多くの人々が傷つき苦しめられる場合が多いのは歴史が証明しています。
 「共感力」というものは人間らしさや思いやりの源泉であり、人類社会が野生の世界のように冷徹な弱肉強食の原理のみで動いていないのは、ひとえに人類が持つに至ったこの「共感力」のお陰であるとも言えます。
 この「共感力」は、高等生物が群れの中での自らの社会的役割を認識し、必要があれば、自らの生物的な欲求を我慢してでも群れの為や他の個体のために奉仕する、という極めて高度な知的判断をともなう能力です。
 それは、盲目的にひたすら自分の生存のために他者を犠牲にしてでも生き残ろうという原始的な生物的欲求とは出所が違うとも言えます。自分だけでも生き残ろうとする原始的な生物的欲求は、本質的に自己中心的であり、ある意味で人間の持つ自己中心的な指向性の源泉もここにあると言えるものです。
 しかし、「共感力」と言うものは、一旦は自分の視点や欲求を離れて、客観的に今何を求められているか、他者が何を感じ何を求めているかを判断し、その為に自からが行動するというものですので、初めからその出所は自分を離れており、従って自分の利害に関わりなく、純粋に群れや他者の安穏な在り方を保持しようという指向性を持っています。
 しかも、「共感力」と言うものは、そもそもの源泉が自己中心的な生命活動にあるわけではなく、本質的に自分以外の他者の事を思い行動しようという指向性に由来しているために、本来は群れや群れの他の個体に向けられていたものが、その枠を超えて、あらゆる他者をその対象にするに至るという性質を持っているものと推測されます。
溺れそうになっている人を通りかかったイルカが助けてくれて岸まで誘導してくれたという話をよく聞きますが、これなどはその典型例であると思います。
 このように、人間というものは、生命活動を源泉とする、自分だけでも生き残ろうとする自己中心的な指向性と、他者の存在を認識しその思いを推測してその為に行動しようとする「共感力」と言う本質的に利他的な指向性の、両方を持っており、両者は本質的に矛盾するため、自らの内にあるそのような相矛盾する正反対の指向性に正面から向き合うと、夜鷹のように限りなく苦悩せざるを得なくなると言うことだと思います。
 そのような生命活動の所産であり代表ともいえる肉体と言うものに対して、それを超えた本質的に利他的な判断力や思いなどの指向性を、古来、人々は精神と呼んできたのかもしれません。そして、そのような肉体の欲求と崇高な精神の判断との狭間で苦悩する人間の姿は、古来より、文学・宗教・道徳の大きなテーマとなって来たのかもしれません。
 また、人間個人としては自己中心的な行動よりも利他的な行動の方が良しとされ、利己的な動機によって他の人と争い事を起こすような人は非常識で野蛮な人であると思われますが、これが不思議なことに、集団となって、国家という枠組みで考えられるようになると、突然、利己的な動機によって他の国と争い事を起こすのはやむを得ないことであり、自分の国が我慢してでも他の国の利益になることをするなんてとんでもないこと、そんなことは考慮の対象にもならない、そのように政治などは動いています。
 個人レベルでは自分の事ばかり考えて他者の利益を考えない人などは非常識な自己中人間だと思われるのに、国家レベルになると自己中が当然であり、自国の利益を守るためなら力ずくもじさないのが当たり前とされているのは何とも不思議な話です。ましてや、「自国は我慢して他国にどうぞ!」のような譲り合い精神などはもっての外、になるのであります。
 幼稚園の子供でも「どうぞ、しましょうね!?」と言われて「は~い!」と「どうぞ」ができるのに、国家レベルでは「どうぞ」なんてもっての他だし、自分が我慢することも、ちょっとでも損になることも、絶対に許さないという超わがままな態度で、お互い張り合うのは当たり前になっています。
 要するに、人類は、個人レベルでは、弱肉強食という生物的な原理を「共感力」と言う知的な情動原理によって克服しようとしてきましたが、国家レベルでは、未だに極めて自己中心的な弱肉強食の生物的な原理そのままで動いている、ということだと思います。このような状態が続く限り、この世界から戦争は無くならないと思います。
 一日も早く、国家レベルでも、自己中心的な弱肉強食の原理ではなく、「共感力」があらゆる判断の元になる日が来ることを願って止みません。