Ty HassyのProgressive Innovation

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AKB48と言語ゲーム

 こないだ久しぶりにテレビでAKB48を見ました。ちょっと前に比べて随分とメンバーが変わってしまって、今や知らない人の方が多くなった感じがしました。もうちょっとすると、全部入れ替わっているんだろうなあと思います。「メンバーが全部入れ替わっても、変わらずAKB48AKB48であり続けるということは、一体、AKB48とは何なのだろうか?」とふと思ったわけであります。

 要するにAKB48とは名前だけ、あるいは名前とそれに伴うコンセプト(概念)であり、AKB48という変わらぬ実体を有するものがあるわけではなく、実際の中身はどんどんと入れ替わっていくものであるということであります。
 同じように、かつて長嶋茂雄が永遠に不滅であると言った「読売巨人軍」というチームがありますが、長島が居た頃の巨人と今の巨人とでは選手もコーチも監督も全く違います。何一つ同じ同一性を保った人も物も見当たりません。今の巨人に限ってみても、絶えず選手は入れ替わっています。常に同一性を保った「読売巨人軍」などと言うものは存在しない訳です。唯一永遠に不滅かもしれないものは「読売巨人軍」という「名称だけ」かもしれません。というか、そもそも「読売巨人軍」といものは初めから「名称だけ」のものであり、ある特定の野球選手の集まりに「読売巨人軍」という名称を勝手につけただけのものであるというのが正解かもしれません。つまり、永続できるものは「名称」あるいは「概念」だけであり、それは人々の頭の中だけで永続できるのであって、実際の選手たちは絶えず変化しているのであり、不変の同一性もないということであります。
 しかも、「読売巨人軍」という概念自体は実在するものではなく、人々の頭の中での単なる取決めに過ぎないので、明日から「朝日小人軍」という名称に変更されれば、「読売巨人軍」は瞬時に消えてなくなるのであります。
 野球チームが単なる名称だけの仮のものであるのは当たり前の話だけど、実際の一人一人の選手達は実在するだろうと思われるかもしれませんが、理屈は同じだと思います。
 巨人にはかつて松井秀喜という選手がいましたが、松井選手の体は60兆個ほどの細胞で構成されており、約1年ほどで全部入れ替わります。「読売巨人軍」が数十人の選手から構成されていて、20年ほどで全部入れ替わるよりも、早いペースで変化しています。では、松井秀喜という人は存在しないのかというと、「読売巨人軍」と同じような意味で存在しているのです。
 ただ、松井秀喜という永遠に不変の同一性を持った実体のようなものは存在しない、ということです。そもそも何が松井秀喜の本質であり実体であるかなど定義できません。10年前は世界に名だたるパワー・ヒッターだった彼も今はそうではありません。パワー・ヒッターが松井の本質であるわけではありません。実際の彼は毎日変化しています。従って、変わらない松井秀喜の本性みたいなものは無いのかもしれません。将来、実業家・松井秀喜になるかもしれませんし、落ちぶれてホームレス・松井秀喜になるかもしれません。そもそも、その人に特定の本性があって、それが永遠に変わらないのであれば、良くも悪くもなることは出来なくなります。特定の本性も本質も不変の同一性も無いからこそ、人間はどうにでも変われるのかもしれません。
 というようなことを考えていたら、近現代のオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインの【言語ゲーム】の話を思い出しました。
 【言語ゲーム】とは、すべてのもの一切を心的なものも物的なものもおしなべて言語的存在とみなし、言語を離れたもの、言語以前に実体としてあるものは一切存在しないという考え方です。
 例えば、椅子というものを例に挙げると、椅子を良く見てみると、実際にあるのはスポンジと布と鉄とプラスチックを組み合わせたものがあるだけです。それらいくつかの素材が、特定の関係性で組み合わせられたたものを我々は、便宜上「椅子」と呼んでいるだけであって、椅子というのは我々の頭の中、つまり「概念」として存在しているだけです。その証拠に、椅子という「概念」を持ってない人が「椅子」を見た時には、自分で考えて「机」として使うかもしれません。つまり、さまざま素材の組み合わせの関係性は、それにどんな意味づけをしようが、それはその人の勝手であるということです。スポンジと布と鉄とプラスチックを組み合わせたものを「椅子」だと思うか「机」だと思うか、あるいは「乗って遊ぶおもちゃ」だと思うかは、本来各人の自由ですが、社会の大多数の人が共有する「意味づけ」または「概念」を受け入れたほうが、実生活上便利であると言うだけです。しかし、大多数の人が共有する「概念」だからと言って、それを不変の本質とするものが実際に実在するわけではないということです。
 ところが、子供の頃より我々は、これらの大多数の人が共有する「意味づけ」あるいは「概念」を「言語」を通じて頭の中に刷り込んでいきますので、往々にして、それらの概念自体が、それに対応するものの「本質」あるいは「不変の同一性」であると勘違いしてしまいがちです。いわば「固定概念」とも言えるものです。
 「固定概念」などという日本語はないのかもしれませんが、いわゆる「固定観念」が拭いきれない強烈な思い込みを伴っている病理的な言葉であるのに対して、それほど病的ではないという意味で、また「既成概念」とは違う意味で、あえてここでは「固定概念」という言葉使うことにします。
 そうして我々は、それらの無数の「固定概念」によって、がんじがらめになって身動きが取れなくなることも、ままあります。
 本来「便宜的な仮のものに過ぎない」概念によってがんじがらめになるというのは、冷静に考えれば馬鹿げた話です。
 上記の例は、「椅子」であったり「人間」であったり、様々な要素が複雑に組み合わされたものでしたので、それらの組み合わせが概念であるというのは分かるが、もっと基本的な要素自体は実在するのではないか、と思われる方もいるかもしれません。
 では、「水」というものを例に挙げて考えてみましょう。実体論の立場の人は、水という性質なり本質を持った何かが実在すると考えます。しかし、今でこそ、常識になっていますが「水」はH2Oという水素原子2つと酸素原子1つの組み合わせからなる水の分子から構成されているということがわかっています。つまり、「水」という不変の同一性をもった実在があるわけではなく、水素原子2つと酸素原子1つの組み合わせと、摂氏1℃から99℃という環境条件によって現す姿を、我々人類は「水」と呼んでいるだけなのです。つまり「水」というものは、水素原子と酸素原子との特定の関係性が、特定の温度環境との関係性によって現した一つの様態に過ぎず、それらの関係性の組み合わせが現した姿以外に「水」という実在があるわけではありません。
 その証拠に、温度環境がO℃以下になれば、たちまち個体の氷になりますし、100℃以上になれば気体になって姿も見えなくなってしまいます。つまり、H2Oという水素と酸素の関係性が「水」と我々が名づける様態で居られるのは、ごく限られた条件の元(1℃~99℃)であり、同じ要素でも条件が変われば表す姿は変わるということです。
 このように、この世のすべてのものは要因と条件によって姿を現し、そのような組み合わせが変われば現れ方も変わるということです。
 では、水素原子や酸素原子は実在するだろう思われるかもしれませんが、それらは陽子・中性子・電子など素粒子の組み合わせです。その素粒子クオークの組み合わせで、クオークも何らかの振動体の相互の関係性によってその性質を現すとされています。しかも、その振動体というものはもはや物ではなく、一種のエネルギーの塊のようなものでそれらの相互の関係性によってさまざま性質が現れると言うのは、正に存在するのは関係性のみであるというものの見方が、現代物理学によって証明されたようなものです。
 以上、ずっと抽象的な話が続きましたので、この辺で上記の抽象的な話を我々の実生活に当てはめて考えてみたいと思います。
 ここにAさんという人がいます。Bさんという女性と付き合っています。つまり、AさんはBさんにとっての「彼氏」です。BさんはAさんにとっての「彼女」です。しかし、やがて、関係がこじれて、BさんはAさんと別れることにしました。しかし、Aさんは納得せず、Bさんを執拗に追い掛け回します。かつてBさんにとって、Aさんは「愛すべき彼氏」だったのが、今や恐るべき「ストーが-」であり、ほとんど「犯罪者」です。ところが、Aさんは実家では年老いた両親を介護しており、ご両親にとってAさんは「最高に親孝行な息子」です。Aさんは会社では「大変優秀な社員」で、上司にとっては「従順な部下」で、部下にとっては「最悪な上司」で、仲のいい同僚にとっては「仲間」であり、仲の悪い同僚にとっては「最大の敵」でした。
 では、どれが本当のAさんなのでしょうか?実は、どれも本当のAさんなのです。Aさんと他の人との関係性によって、同じAさんが「犯罪者」になったり、「最高に親孝行な息子」になったり「大変優秀な社員」になったり「従順な部下」になったり「最悪な上司」になったり「仲間」になったり「最大の敵」になったりするのです。
 Aさん自体が本来不変の特性を持っているわけではなくて、Aさんと他の人との関係性によってその意味付けが変わってくるということです。
 意味付けを変えたかったら関係性を変えればよいということです。あるいは意味づけを変えることによって関係性が変わることもあるかもしれません。
 Aさんが本質的に「悪人」であるなら、Aさんは誰にとっても「悪人」であるはずで、永遠に「悪人」であるはずです。誰かにとって「最高にすばらしい」人であるはずもありません。しかし、現実には相手によって全く違った姿を示し、意味づけも全く違ったものになるということです。
 このように、物事にも人にも不変の本性なり本質などというもの無く、あくまで自分とその人あるいはその物事との関係性が存在するだけで、その関係性に自分がどのような意味づけをするのかは、全くの自分の自由であるということです。
 このようなものの見方をより実生活に役立つようにするには、それを自分の周りの実際の人間関係に当てはめてみるといいかもしれません。
 普通、私達の日常生活のおいては、色んな人間関係が有ります。良い人もいれば意地の悪い人もいるし、敵もいれば味方もいる。しかし、本当は、全ての人も出来事も、あくまで本来特定の意味は持っていません。「良い人」も「意地の悪い人」も「敵」も「味方」も「悪い出来事」も「良い出来事」も、全て自分との関係性においてそう言う風に見えるだけで、本来はどんな意味付けをしようが全くの自由なはずでした。
 例えば、自分の悪口を言ったりあら捜しをして足をひっぱったりする人がいれば、普通多くの人は、その人に対して「敵」という意味付けをします。そして、一旦、敵という意味付けをしたら、正にその人のやる事はすべてネガティブな敵対行為そのものとしか思えなくなります。そして、その人を憎み、憎んでもどうにもならないしストレスがたまり、自分自身が大いに苦しみます。
 しかし、自分がいくら憎んでも相手は痛くも痒くもありません。だからこそ、余計に憎さが増幅していきます。この様に、本来どんな意味付けをしても自由であるはずの相手に対して、勝手に自分で「敵」だと決めて、その結果として自分自身が多いに苦しむ事に成る訳です。まさに、一人相撲です。
 それよりも、敵という意味付けをする代わりに、「あの人のお陰で、自分の足らないところが気付けるのだ、自分の行動に気をつけられるようになる。考えて見れば、恩人なのだ。」と言う風にポジティブな意味付けをすれば、もうその人が何をしようが、全て自分の為に成る事なので、あら捜しをされればされる程自分は成長できるし、悪口を言われれば言われるほど、自分が他の人にどう思われているか気付けるのでどんどん自分が成長できます。
 このように、相手のどんな行為も、自分のそれに対する意味付け次第でどうにでも受けとれる訳なので、嫌なものがあるのなら初めからそのような意味付けをしなければいい訳です。
 とは言っても、これはあくまで理屈上の話であって、人間は理屈通りに考えられるものではありません。そういうものの見方で言えばそうなるということであって、実際にすぐ明日から180度違った意味づけができるかというと、そうはいかない場合の方が多いのではないかと思います。
 様々な原因と条件によってできあがってしまった人間関係なので、先ずはそれがネガティブな展開の仕方をしてしまった理由を理解することが先決なのかもしれません。その為には、相手との充分な意思の疎通が必要不可欠になるでしょう。その上で、少しずつ相互の相手に対する意味づけの仕方が変化しはじめて、しだいに人間関係も改善していくと言うのが、現実的な方法なのかも知れません。
 いずれにしても、人間というものは、本来、本質的に善人も悪人も立派な人も駄目な人もいません。皆、いろんな条件と関係性の中で時には善人でいられたり、悪人になってみたり、立派なこともしてみたり、どうしようもなく駄目な人間になったりするということです。
 すべては、一瞬一瞬の選択と判断で変わります。ずっと周りから尊敬されていた人がある日突然電車の中で痴漢をして犯罪者になるかもしれませんし、同じその人が、その経験を機に心底心を入れ替えて再びより立派な人になったりするものです。
だから、「あの人は立派な人だ」とか「あいつは駄目な奴だ」なんて言葉は、せいぜい有効期限は1日ぐらいで、明日はどうなるか誰にも判りません。
 これを、ネガティブに考えれば「誰も当てにならない」とも言えますが、ポジティブに考えると「どんな人でもよりよく成れる可能性はある」と言うことでもあります。
 ということで、長々と回りくどい話をしてきましたが、要するに「言語ゲーム」というものの見方は「あらゆる固定概念・思い込み・こだわりから自分自身を解放するものの見方」であると言えるもかもしれません。
 それが、西洋の哲学が2000年以上かけて到達した最新の結論のようなものなのですが、実は、これとほとんど全く同じことを2000年以上も前から言っていたのが、仏教の「空」の考え方だったのであります。
 『般若心経』などで有名な「色即是空」の「空」とはそういう意味であり、2世紀ごろの龍樹というインド人仏教僧が、上記のウィトゲンシュタインと殆ど同じことを言っていたというのは驚くべきというか、西洋の哲学は2000年かけてようやく仏教の足元に追いついたと言えるのかもしれません。