Ty HassyのProgressive Innovation

人類の叡智と知の最先端を探求し続けて・・年、知ってしまうと目から鱗の新しい世界観が目の前に拓けてくるかも知れません。その秘蔵ネタをチビリチビリと小出しにして行きます。乞うご期待!

利己的な心と思いやりの心の二つの矛盾する源泉①

2019`年もいよいよ最後の日となりました。

今年一年ありがとうございました。

来年もまた宜しくお願い申し上げます。

今年最後の投稿としてちょっと真面目な考察をしてみましたので、時間がある時にでも読んで頂ければと思います。

例によって長いので、本日大晦日と明日新年の元旦の二日に渡り、年を跨いでの二回の投稿にしたいと思います。では宜しくお願い致します。


 宮沢賢治の童話の一つに『よだかの星』という童話があります。
 よだかは、鷹という名前はついていますが鷹ではなく、その醜い姿ゆえに皆から馬鹿にされ笑われ、親切にした相手からさえも嫌われます。そして、本当の鷹からは「そんな醜い姿で鷹を名乗るな!鷹の名が穢れる!」として、「明日までに名前を変えて、その変えた名前を皆に知らせないとお前を殺す」と宣告されます。
 よだかは何も悪いことはしていないし、むしろ親切にしているのに、その相手からも嫌われてしまう。そして、鷹からは無理難題を言われて殺すと脅されている。よだかが途方に暮れて飛び回っていると、大きく開けた口の中にカブト虫が飛び込んできます。カブト虫は、よだかの口の中でバタバタともがき苦しんで、悲鳴を上げて死んでいきました。
 その時に、よだかは気づきました。自分は何も悪い事はしていないのに、毎日皆から酷い目に合わされていると思っていたけれど、実は自分もこうやって、これまで沢山の虫たちを殺してきたのだ。自分が生きていくために、毎日多くの虫たちが自分の口の中で悲鳴を上げて死んでいったのだと。
 もうこんな酷いことは繰り返したくない。明日から絶食することにしよう。でも、その自分も明日、他の鷹に殺されるかもしれない。皆から嫌われて馬鹿にされているような自分が、自分が生きていくだけで他の多くの虫たちを苦しめてしまう。そして明日には鷹に殺されるかもしれない。自分は一体何のために生まれてきたのだろうか?せめて、最後に何かの役に立ちたい。太陽に向かって飛んで行ってそのまま燃え尽きれば、一筋の光ぐらいにはなれるかもしれない。
 よだかは太陽に向かって行きましたが、太陽から「君は夜の鳥だから、星に頼みなさい」と言われ、東西南北の星座それぞれに頼みますが、君のような身分の低いものが星になれるわけないと無下に断られます。
 よだかは夜空に向かって何度も飛びましたが、打ちひしがれて地上に落ちてしまいます。そして、ついに最後の力と全身全霊の思いを込めて、再度飛び立ちます。そして、そのままどんどん空高く飛んで、ついには全身が光り輝き夜空の星になることが出来ました。そして、その光は今も輝いているということです。

 この物語は、数多くの宮沢賢治の童話の中でも最高傑作の一つだと思います。僕は、この童話は何度読んでも涙が出ます。とても悲しくて、そして、とても美しいはお話だと思います。
 人間も生きていく為に、毎日沢山の他の生物を犠牲にしながら、自分の命を保っています。菜食にしても、本来、子孫のために残したはずの稲や麦の種子を横取りしているのには変わりありません。
 自然界においても、その姿をじっくりと観察すれば、毎日食うか食われるかの生存競争の繰り返しです。せっかく生まれた子供たちも、その多くは他の生き物に食べられてしまいます。というか、初めから食べられるのが当たり前で、運よく食べられなかった子供たちが生き残っていくようになっているとさえ言えます。正に弱肉強食の殺伐とした世界であり、皆が仲良く幸せに生きるなどという理想的な世界とは正反対の、残酷さと冷酷非情さに支配された、恐ろしい世界であるとさえ言えます。自然界が一見美しく平和で素晴らしい世界に見えるのは、単にディテールが見えない、つまり、そのような冷酷非情な弱肉強食の生存競争の恐ろしい実態が表立って見えないからに過ぎません。
宮沢賢治は、そのような生の本質の恐ろしさ・非情さを物語を通じて「これでもか!」という程、読者に迫ってきます。
 ただ、そのような弱肉強食の恐ろしい生存競争の世界も、自分が犠牲者にならない限り、ずっと強者であり続けることができれば、何も恐ろしいことは無いかもしれない。現に地上最強の強者である我々人類は、毎日沢山の動物を殺し、牛や豚や鳥は当然のごとく殺し、伝統文化であると称して鯨やイルカまで殺し、同じくその国の食文化であるとして犬まで殺して食べる国もあります。
 そのようなとてつもなく残酷なことが毎日行われていても、たまたま、自分達が、牛や豚が殺されていく姿や、鯨やイルカが血を流して殺されて行く姿や、犬が皮をはがされて食肉にされていく姿を見なくても済んでいるというだけの理由で、平気でそれらを食して楽しく暮らしているわけであります。宮沢賢治の童話の中に「注文の多い料理店」という作品がありますが、あれは人間が食べられる側になった時の状況を描いた作品です。
 人間は逆の立場にでも置かれない限り、犠牲になっている動物たちの気持ちなど分からないだろう。そういう厚顔無恥な人類に対する、賢治の精一杯の皮肉だったのだと思います。
 ただ、人類全員が、自分たちの為に他の動物たちが犠牲になっている事実に対して、何とも思っていない訳ではないことも事実です。お坊さんのご説法にあるように、だから「いただきます」と感謝の気持ちで頂くのです。こう言う人々もいます。ただ、「いただきます」と言ったからといって、決して許されるわけでも正当化されるわけでもないことは言うまでもありません。
 よだかが、虫たちが自分の口の中で死んでいくのが耐えられなくなり、絶食しようと決心して最後には星になる、という物語は美しい結末ですが、現実にそうは行きません。
 人間には自己中心的な心と他者を思いやる気持ちの両方がありますが、どちらかだけ100%という人は殆どいないと思います。みんな半分半分ぐらいかもしれません。ただ、よだかのように、他者に対する思いやりの気持ちが大きければ大きいほど、自分の生存のために他者を犠牲にしなければ生きていけない、という事実は耐え難い苦しみであり、真剣に考えれば考えるほど、申し訳なく、とても自分だけの幸せを謳歌する気にはなれない、と思います。
 つまり、人間がそのような根源的苦しみから逃れて、ある程度幸せに生きていくためには厚顔無恥でいるしかない、ということかもしれません。自分のために他者が犠牲になっていても、そんなことは気にせずに、図々しく知らないふりをして、とぼけて生きていくしかないのかもしれない、ということです。
 あのよだかも、もうちょっと図々しい性格だったら、星にはならずに、鷹のいないところにこっそり逃げて、しぶとく生き残ったかもしれません。
 しかし、そもそも、自らの生存を否定することにつながるような、他者を思いやる気持ちというものを、なぜ人間は持っているのでしょうか?弱肉強食が自然の摂理であるとすれば、人間の持つそのような他者を思いやる気持ちは、明らかに自然の摂理に反するものであり、それを否定するものです。
 「自然の摂理に従って進化してきたはずの人類が、それを否定するような思いを持つに至ったということは、一体どういうことなのか?」
 これは人類最大の謎である、と言っても過言ではない、大きなテーマであると思います。いつもながら長くなってしまったので、一旦ここで区切ります。


次回は、上記の人類最大の謎に迫りたいと思います。

 

それでは、皆様良いお年を!