Ty HassyのProgressive Innovation

人類の叡智と知の最先端を探求し続けて・・年、知ってしまうと目から鱗の新しい世界観が目の前に拓けてくるかも知れません。その秘蔵ネタをチビリチビリと小出しにして行きます。乞うご期待!

動画だけでなく現実世界も実は点滅している

 最近はテレビも4Kとか8Kが出てきて、どんどんと画像がリアルに成ってきています。ほんの10年前ぐらいには、昔のテレビからハイビジョンになっただけでも、あまりの鮮明さに目が覚める思いがしたものです。
 パソコンで動画を加工したりすると良く分かりますが、画像の鮮明さは画素数の多さに比例しますし、動きの滑らかさはフレームレート(fps)つまり一秒間に何コマの静止画を表示するかによって変わります。ハイビジョン動画なら一秒間に60コマの静止画が入れ替わって動画に見えるようになっています。
 実は、映画でもビデオでも、あらゆる動画と言われるものは点滅しており、また点滅しないと動画にはなりません。映画のフィルムをご覧になれば分かる通り、フィルム上では静止画が映っているだけで、それを1秒間に何コマか単位で流すと動画に成ります。そんなことは当たり前の話で、今更特に取り立てて言う話でも無かろうと思われる方も少なくないとは思います。
 しかし、本当に興味深いのは、点滅しないと動画にならないというのは、何もビデオや映画に限った話では無くて、我々の現実世界そのものも、実は点滅しおり、点滅しているからこそ動きがあるということです。
 この事実は、意外にも、比較的最近まであまり知られていませんでした。科学者でも、ちょっと昔の物理学者たちは、物質はずっと存在し続けていると思っていましたし、原子レベルでも、地球が太陽の周りを回っているように、原子核の周りをぐるぐる電子がまわっていると思っていました。
 ところが、電子のエネルギー計算をすると直ぐに、そんなことは不可能であることが分ったのです。もし、電子が原子核の周りを回り続けているとすると、あっと言う間にエネルギーを使い果たし、原子核の引力に引っ張られて原子核に激突してしまうことが分ったのです。
 で、結論から言うと、電子は原子核の周りをグルグルと回りつづけている訳ではなくて、ある特定の確率の範囲内に存在する可能性があると言う状態にあるだけで、実際に観測されるまでは、その状態は確定できないということが分りました。また、実際に観測されても位置か運動量かのどちらかしか確定できないことも分りました。それを、ハイゼンベルグ不確定性原理と言います。
 更に不思議なのは、電子のエネルギー状態の変化も1,2,3とデジタル式に変化することが分かりました。デジタル式と言うのは、よく車についているデジタル時計だと7時59分から8時00分にいきなり変わるので、7時59分1秒なのか7時59分59秒なのか、次の表示に変わるまでは皆目分からないと言う難点があります。時計であれば、本当はアナログ時計の針のように7時59分から8時00分まで長針が動き続けてから8時なったと言えますが、デジタル時計は必ず1,2,3…と飛び飛びの値しか表示しません。それと同様に電子の場合も、1,2,3…の間は全く不連続でとびとびの値を取ると言うことです。
 つまり、1のエネルギー状態にあった電子は2の状態になるまでに、1.1, 1.2, 1.3・・・と連続的にエネルギー状態が増して2に到達するのではなくて、1からいきなり2になるのであります。1から2までの間の状態は一切ありえないと言うことです。
 「1」と言うエネルギー状態にあった電子が「2」の状態に遷移する時は、「1」の状態からいったん消えて、いきなり「2」の状態でまた現れると言うことが分った訳であります。
 このように、電子などの素粒子は、連続的に存在している訳ではなくて、デジタル的な数値に従って消えたり現れたりを繰り返しているということが分った訳です。
 そして、この世の全てのものは素粒子から構成されているので、全てのものは消えたり現れたりの点滅を繰り返しているということが分かった訳です。
 動画に詳しい人なら分かると思いますが、動画の動きを出来るだけ滑らかにしようとして、1秒間に入れ替わる静止画のコマ数(fps=フレーム・パー・セカンド)を、通常は60フレーム位ですが、それを無理やり1万フレーム位にしたら、余りの情報量の多さに動画が動かなくなると思います。
 それと同様に、実際の物質も、アナログ時計のように連続的に存在し続けるなら、一つの状態から次の状態に移行するまでの過程が無限の数だけあることになってしまうため、どのような変化も移動も出来ない事になる訳です。
 つまり、連続的に存在し続けるということは、変化の過程においても存在し続ける訳ですから、その過程の数は無限になってしまい、無限の数の過程を経るには無限の時間が掛かるため、実質的に変化できない事になる訳です。
 しかし、実際に、我々が見ているものは絶えず変化しており、移動もしている訳ですから、変化したり、移動したりするには、その変化や移動の過程が無限数にならない様にどこかで変化の過程の数を減らさなければならないわけです。そして、実際に変化の過程の数を減らすには飛び飛びの値を取るしかない、つまり、点滅するしかないという事です。
 むかし、ゼノンの【矢のパラドックス】と言うものがありました。今から二千何百年も前、ギリシャの哲学者ゼノンによって提示された問題ですが、飛んでいる矢は的までの間の中間点を通らねばならず、その中間点の数は無限個あるため、無限個の中間点を通るには無限時間かかる為、矢は永遠に的に到達できないというものです。
 ところが実際には矢は的に到達できるため、その理由をどうやって説明したらいいか、古来、色んな人が屁理屈を捏ねてきた問題でした。
 もし矢と言うものが連続的に存在しているものであるとすると、正にゼノンの言う通りであって、矢は無限の中間点を通らねばならず、永遠に移動もできないことになります。
 多くの哲学者や数学者は色んな方法で論証しようとしてきましたが、矢が連続的に存在しているという前提に立つ限りは、どのような論証も屁理屈に過ぎず、ちゃんとゼノンを論破できたと言える人は一人も居ませんでした。
 ところが、先にも言いましたように、20世紀になって量子論が発展して、物は連続的には存在しておらず、絶えず点滅しているのであるということが分かって初めて、ゼノンの【矢のパラドックス】の謎も解けたわけであります。
 矢も点滅しながら現れたり消えたりしながら移動しているので、無限の中間点を通る必要もなく、多くの中間点をすっ飛ばしながら移動しているので、的に到達できるわけであります。
 のぞみも快速も間の駅をすっ飛ばすから早いのであって、間に無限の数の駅があったら永遠にどこにもたどり着けないということであります。
 宮沢賢治の《春と修羅》 序の中に以下の様な一節があります。
  わたくしといふ現象は
  假定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽靈の複合體)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
 あの時代に既に、全てが明滅している現象であると言うコンセプトを持っていたという所に、彼の天才が伺えます。