Ty HassyのProgressive Innovation

人類の叡智と知の最先端を探求し続けて・・年、知ってしまうと目から鱗の新しい世界観が目の前に拓けてくるかも知れません。その秘蔵ネタをチビリチビリと小出しにして行きます。乞うご期待!

70年代ロック

 私は自称ミュージシャンですが、幼少期は家庭環境の影響もあって、クラシック音楽を聴いて育ちました。従って、クラシックの名曲と言われるものはほぼ全て記憶の奥底に収納されているのですが、逆にクラシック以外の音楽は何となく見下していました。しかし、中学生になると一応吹奏楽部には入っていたのですが、ジャズ等も聞いたり真似事をしたりするようになりました。
 でも、高校に入ったころに全盛となりつつあった70代ロックを聞いて、何やら得体のしれない衝撃を受けて、僕の音楽観は以来がらりと変わったのです。
 それまでの、いわゆる大衆音楽と言われるものは、明るく楽しい恋の歌みたいなのばかりで、真面目に聞く気はしませんでしたが、70代ロックの特徴はとにかく重いというのが特徴で、ある意味で深刻でちょっと暗くて、その分、真剣で、出口の見えないトンネルからの脱出口を真剣に模索しているよう切実さを感じさせるものでした。明るく楽しい恋の歌などとは無縁の世界観を感じさせるものだったのです。
 でも、そういう70代ロックも80年代になると、ビジネス化、娯楽化されて、楽しくてノリの良い音楽へと変貌していったので、80年代以降のロックは商業的ポップミュージックに化したと言っても過言では無いと思います。
 社会情勢としても60年代後半から70年代というのは、それまでの人類の生き方や考え方を、見直そうとうする社会変革の波が押し寄せている時代でした。環境問題が意識されるようになったのもその頃です。従って70年代ロックというのは、そういう社会変革と新しい価値観の模索を象徴するような側面も持っていたわけであります。
 だから、いま改めて聞いてみると、何だか、暗くて、重くて、切羽詰まっているけど、どこかに希望の光がみえそうな、感動的なものが多い反面、今の人にとっては鬱陶しいと感じるような印象を受ける人もいるかもしれません。
 でも、人間が本気で悩んで、真面目に突破口を模索している時にできた作品というのは、独特の奥の深さと感動を与える力を持っているように私は思います。
    事実、70年代には数多くの優れた音楽が生み出されたのですが、それももはや、遠い過去の事となりつつあり、このままでは歴史の波にかき消され、忘れ去られてしまいそうに思います。
 ということで、ここで、改めてその70代ロックのユニークさとその奥の深さを、一人でも多くの人々に再認識して頂きたく、その一例を、ここでご紹介したいと思います。

 先ずは70代初期の元祖ハードロックで、私が高校の時に組んでいたロックバンドが完全コピーして定番レパートリーにしていた曲を2曲続けてどうぞ。
Grand Funk Railroad -Inside Looking Out-
https://youtu.be/72PFFNbUkTI

Led Zeppelin - Stairway to heaven-
https://youtu.be/6hBLHkmBKDg

 次も高校の時のロックバンドのレパートリー曲で、当時はプログレッシブロックと言われた前衛的なロックの名曲です。
King Crimson -The Court of the Crimson King
https://youtu.be/MBIJ8JWostc

King Crimson-Epitaph-
https://youtu.be/WvRGe0EeIhg

 次は同じく前衛的なプログレッシブロックの代表格のピンクフロイドの曲です。
最初の原子心母という曲は前衛クラシックとロックとが癒合したような曲で優れた楽曲だと思います。
 私が高校の時に、音楽部の顧問の教師を説得して、わが軽音部とコーラス部と吹奏楽部と室内楽部全員で文化祭の時のメインイベントとしてこの楽曲を体育館で披露しました。23分の大曲ですが、終わってみれば感動の嵐で、涙する者も少なくありませんでした。
Pink Floyd -Atom Heart Mother- 

https://youtu.be/Fku7hi5kI-c

 同じく、ピンクフロイドの名曲ですが、当時は若者だった彼らは最近に成ってまた復活してライブコンサートをした時の模様です。もうお爺ちゃんですが、曲のかっこよさは当時のままです。
Pink Floyd -Echoes-

https://youtu.be/zrProK5R7ms

Pink Floyd -Shine on you-

https://youtu.be/CiXNIjGX1hY

 当時のロックと言えばイギリスかアメリカが中心でしたが、このグループはドイツのグループでとっても前衛的なプログレッシブロックで、もはやロックの域を超えた新しいシンセサイザー音楽の一領域作ってしまったグループです。
Tangerine Dream - Ricochet (1975)
https://youtu.be/mp7n8bX8d2g

 最後はおまけですが、上記の70年代初期のプログレッシブロックグループのキングクリムゾンの代表曲であるEpitaphを当時の西城秀樹がカバーしていたのであります。当時でさえ、超マニアックな音楽だったキングクリムゾンの曲を日本のアイドル歌手がまさかカバーしていたとは、私もつい最近まで知りませんでした。面白いのでついでに載せておきます。

西城秀樹 King Crimson-Epitaph-

https://youtu.be/IIiigfQgUcA

 その後、更に発見したのは、あのザ・ピーナッツまでが、このエピタフをカバーしていたようです。こちらは中々聞き応えがあります。

ザ・ピーナッツ King Crimson-Epitaph-

https://nico.ms/sm6506885?ref=share_others_spweb

    あと、書き忘れておりましたが、その頃、日本にもプログレッシブロックのバンドがあったのですが、知る人ぞ知る存在で、一般には殆んど知られておりませんでした。後にボーカルで有名になったジョー山中やミュージシャンとしては3流だった内田裕也までが気持ちだけ参加していたバンドで、逆に海外では有名だったグループです。名前はフラワー・トラベリン・バンド(Flower Travellin' Band)と言って、東洋的なロックとして欧米では結構高く評価されていました。楽曲名もずばりSATORIで当時のヒッピーさん達が飛び付きそうな名前でした。5部構成の大曲で中々の意欲作です。

https://youtu.be/ploqMlpJG9I

 

#グランドファンクレイルロード  #孤独の叫び

#レッドツェッペリン  #天国への階段

#キングクリムゾン  #エピタフ

#ピンク・フロイド  #原子心母  #エコーズ

#タンジェリンドリーム  #リコシェ

#70年代ロック  #ヘビーロック

#プログレッシブロック  #ハードロック

#フラワー・トラベリン・バンド

#Flower Travellin' Band  #ジョー山中

利己的な心と思いやりの心の二つの矛盾する源泉② — 共感力は進化の証

皆様、新年あけましておめでとうございます。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

本日は、約束通り、昨日の大晦日のつづきであります。

 先の投稿で、宮沢賢治の『よだかの星』のお話をご紹介致しました。自分が生きて行く為に、毎日沢山の虫が自分の口の中で悲鳴を上げて死んでいくのに耐えられなくなった夜鷹は、もうこれ以上、自分のための犠牲者を出したくないと思い、食べることを止めて、ひたすら夜空に向かって飛び続けて、最後は星なった、という悲しくも美しいお話です。
 これは、夜鷹に限らず、我々人間も含めた、全生物が抱える根源的な問題に焦点を当てた物語です。つまり、生きるということは他者を犠牲にするということであり、他者を犠牲にしたくないという他者を思いやる気持ちと、自分が生きて行く為には他の生物を食べて行かざるを得ないという事実は、根本的に矛盾するものであり、他者に対する思いやりの度合いが強ければ強いほど、その葛藤による苦しみは大きくなるということです。
 我々が普段こころ穏やかに暮らせているのは、そう言う根源的に厳しい現実から、目を背けて、知らないふりをして、とぼけているからに過ぎません。
しかし、もし夜鷹のように、他者の苦しみを自分の苦しみのように感じ、その事実から目を逸らさずに正面から向き合おうする人がいたとしたら、その人生は葛藤と苦しみと悲しみの連続になるに違いありません。
 しかし、そもそも、自らの生存を否定することにつながるような、他者を思いやる気持ちというものを、なぜ人間は持っているのでしょうか?弱肉強食が自然の摂理であるとすれば、人間の持つそのような他者を思いやる気持ちは、明らかに自然の摂理に反するものであり、それを否定するものです。
 「自然の摂理に従って進化してきたはずの人類が、それを否定するような思いを持つに至ったということは、一体どういうことなのか?」これは人類最大の謎であると言っても過言ではない大きなテーマであると思います。…と前回大風呂敷を広げたので、今回はその後始末をしておきたいと思います。

 そもそも、他者の気持ちを自分に置き換えて推量する能力、つまり「共感力」と言われるものは、類人猿やイルカなどにも見られるようです。脳科学的にはミラーニューロンという神経細胞が、他者の行動に対し自らの行動と同等の反応示すことが分かっており、それが「共感力」の源泉ではないかと推測されています。
 類人猿も確実に他者の気持ちを推測できる能力を持っている、これは実験的に確認されています。しかし、まだ分からないことも多く、犬の情緒豊かな反応の源泉など、まだまだ解明されていないことも数多くあるのも事実です。いずれにしても、「共感力」と言うものは人類だけのものではなく、生物が高度に進化した結果として獲得した能力であることは確かなようです。
 ただ、人類であっても、育った環境や先天的な理由によって、「共感力」が失われている場合も少なからずあるようです。例えば、凶悪犯罪者や横暴な指導者に多いサイコパスと言われる人たち、他者の痛みを一切に意に介さない彼らによって、多くの人々が傷つき苦しめられる場合が多いのは歴史が証明しています。
 「共感力」というものは人間らしさや思いやりの源泉であり、人類社会が野生の世界のように冷徹な弱肉強食の原理のみで動いていないのは、ひとえに人類が持つに至ったこの「共感力」のお陰であるとも言えます。
 この「共感力」は、高等生物が群れの中での自らの社会的役割を認識し、必要があれば、自らの生物的な欲求を我慢してでも群れの為や他の個体のために奉仕する、という極めて高度な知的判断をともなう能力です。
 それは、盲目的にひたすら自分の生存のために他者を犠牲にしてでも生き残ろうという原始的な生物的欲求とは出所が違うとも言えます。自分だけでも生き残ろうとする原始的な生物的欲求は、本質的に自己中心的であり、ある意味で人間の持つ自己中心的な指向性の源泉もここにあると言えるものです。
 しかし、「共感力」と言うものは、一旦は自分の視点や欲求を離れて、客観的に今何を求められているか、他者が何を感じ何を求めているかを判断し、その為に自からが行動するというものですので、初めからその出所は自分を離れており、従って自分の利害に関わりなく、純粋に群れや他者の安穏な在り方を保持しようという指向性を持っています。
 しかも、「共感力」と言うものは、そもそもの源泉が自己中心的な生命活動にあるわけではなく、本質的に自分以外の他者の事を思い行動しようという指向性に由来しているために、本来は群れや群れの他の個体に向けられていたものが、その枠を超えて、あらゆる他者をその対象にするに至るという性質を持っているものと推測されます。
溺れそうになっている人を通りかかったイルカが助けてくれて岸まで誘導してくれたという話をよく聞きますが、これなどはその典型例であると思います。
 このように、人間というものは、生命活動を源泉とする、自分だけでも生き残ろうとする自己中心的な指向性と、他者の存在を認識しその思いを推測してその為に行動しようとする「共感力」と言う本質的に利他的な指向性の、両方を持っており、両者は本質的に矛盾するため、自らの内にあるそのような相矛盾する正反対の指向性に正面から向き合うと、夜鷹のように限りなく苦悩せざるを得なくなると言うことだと思います。
 そのような生命活動の所産であり代表ともいえる肉体と言うものに対して、それを超えた本質的に利他的な判断力や思いなどの指向性を、古来、人々は精神と呼んできたのかもしれません。そして、そのような肉体の欲求と崇高な精神の判断との狭間で苦悩する人間の姿は、古来より、文学・宗教・道徳の大きなテーマとなって来たのかもしれません。
 また、人間個人としては自己中心的な行動よりも利他的な行動の方が良しとされ、利己的な動機によって他の人と争い事を起こすような人は非常識で野蛮な人であると思われますが、これが不思議なことに、集団となって、国家という枠組みで考えられるようになると、突然、利己的な動機によって他の国と争い事を起こすのはやむを得ないことであり、自分の国が我慢してでも他の国の利益になることをするなんてとんでもないこと、そんなことは考慮の対象にもならない、そのように政治などは動いています。
 個人レベルでは自分の事ばかり考えて他者の利益を考えない人などは非常識な自己中人間だと思われるのに、国家レベルになると自己中が当然であり、自国の利益を守るためなら力ずくもじさないのが当たり前とされているのは何とも不思議な話です。ましてや、「自国は我慢して他国にどうぞ!」のような譲り合い精神などはもっての外、になるのであります。
 幼稚園の子供でも「どうぞ、しましょうね!?」と言われて「は~い!」と「どうぞ」ができるのに、国家レベルでは「どうぞ」なんてもっての他だし、自分が我慢することも、ちょっとでも損になることも、絶対に許さないという超わがままな態度で、お互い張り合うのは当たり前になっています。
 要するに、人類は、個人レベルでは、弱肉強食という生物的な原理を「共感力」と言う知的な情動原理によって克服しようとしてきましたが、国家レベルでは、未だに極めて自己中心的な弱肉強食の生物的な原理そのままで動いている、ということだと思います。このような状態が続く限り、この世界から戦争は無くならないと思います。
 一日も早く、国家レベルでも、自己中心的な弱肉強食の原理ではなく、「共感力」があらゆる判断の元になる日が来ることを願って止みません。

利己的な心と思いやりの心の二つの矛盾する源泉①

2019`年もいよいよ最後の日となりました。

今年一年ありがとうございました。

来年もまた宜しくお願い申し上げます。

今年最後の投稿としてちょっと真面目な考察をしてみましたので、時間がある時にでも読んで頂ければと思います。

例によって長いので、本日大晦日と明日新年の元旦の二日に渡り、年を跨いでの二回の投稿にしたいと思います。では宜しくお願い致します。


 宮沢賢治の童話の一つに『よだかの星』という童話があります。
 よだかは、鷹という名前はついていますが鷹ではなく、その醜い姿ゆえに皆から馬鹿にされ笑われ、親切にした相手からさえも嫌われます。そして、本当の鷹からは「そんな醜い姿で鷹を名乗るな!鷹の名が穢れる!」として、「明日までに名前を変えて、その変えた名前を皆に知らせないとお前を殺す」と宣告されます。
 よだかは何も悪いことはしていないし、むしろ親切にしているのに、その相手からも嫌われてしまう。そして、鷹からは無理難題を言われて殺すと脅されている。よだかが途方に暮れて飛び回っていると、大きく開けた口の中にカブト虫が飛び込んできます。カブト虫は、よだかの口の中でバタバタともがき苦しんで、悲鳴を上げて死んでいきました。
 その時に、よだかは気づきました。自分は何も悪い事はしていないのに、毎日皆から酷い目に合わされていると思っていたけれど、実は自分もこうやって、これまで沢山の虫たちを殺してきたのだ。自分が生きていくために、毎日多くの虫たちが自分の口の中で悲鳴を上げて死んでいったのだと。
 もうこんな酷いことは繰り返したくない。明日から絶食することにしよう。でも、その自分も明日、他の鷹に殺されるかもしれない。皆から嫌われて馬鹿にされているような自分が、自分が生きていくだけで他の多くの虫たちを苦しめてしまう。そして明日には鷹に殺されるかもしれない。自分は一体何のために生まれてきたのだろうか?せめて、最後に何かの役に立ちたい。太陽に向かって飛んで行ってそのまま燃え尽きれば、一筋の光ぐらいにはなれるかもしれない。
 よだかは太陽に向かって行きましたが、太陽から「君は夜の鳥だから、星に頼みなさい」と言われ、東西南北の星座それぞれに頼みますが、君のような身分の低いものが星になれるわけないと無下に断られます。
 よだかは夜空に向かって何度も飛びましたが、打ちひしがれて地上に落ちてしまいます。そして、ついに最後の力と全身全霊の思いを込めて、再度飛び立ちます。そして、そのままどんどん空高く飛んで、ついには全身が光り輝き夜空の星になることが出来ました。そして、その光は今も輝いているということです。

 この物語は、数多くの宮沢賢治の童話の中でも最高傑作の一つだと思います。僕は、この童話は何度読んでも涙が出ます。とても悲しくて、そして、とても美しいはお話だと思います。
 人間も生きていく為に、毎日沢山の他の生物を犠牲にしながら、自分の命を保っています。菜食にしても、本来、子孫のために残したはずの稲や麦の種子を横取りしているのには変わりありません。
 自然界においても、その姿をじっくりと観察すれば、毎日食うか食われるかの生存競争の繰り返しです。せっかく生まれた子供たちも、その多くは他の生き物に食べられてしまいます。というか、初めから食べられるのが当たり前で、運よく食べられなかった子供たちが生き残っていくようになっているとさえ言えます。正に弱肉強食の殺伐とした世界であり、皆が仲良く幸せに生きるなどという理想的な世界とは正反対の、残酷さと冷酷非情さに支配された、恐ろしい世界であるとさえ言えます。自然界が一見美しく平和で素晴らしい世界に見えるのは、単にディテールが見えない、つまり、そのような冷酷非情な弱肉強食の生存競争の恐ろしい実態が表立って見えないからに過ぎません。
宮沢賢治は、そのような生の本質の恐ろしさ・非情さを物語を通じて「これでもか!」という程、読者に迫ってきます。
 ただ、そのような弱肉強食の恐ろしい生存競争の世界も、自分が犠牲者にならない限り、ずっと強者であり続けることができれば、何も恐ろしいことは無いかもしれない。現に地上最強の強者である我々人類は、毎日沢山の動物を殺し、牛や豚や鳥は当然のごとく殺し、伝統文化であると称して鯨やイルカまで殺し、同じくその国の食文化であるとして犬まで殺して食べる国もあります。
 そのようなとてつもなく残酷なことが毎日行われていても、たまたま、自分達が、牛や豚が殺されていく姿や、鯨やイルカが血を流して殺されて行く姿や、犬が皮をはがされて食肉にされていく姿を見なくても済んでいるというだけの理由で、平気でそれらを食して楽しく暮らしているわけであります。宮沢賢治の童話の中に「注文の多い料理店」という作品がありますが、あれは人間が食べられる側になった時の状況を描いた作品です。
 人間は逆の立場にでも置かれない限り、犠牲になっている動物たちの気持ちなど分からないだろう。そういう厚顔無恥な人類に対する、賢治の精一杯の皮肉だったのだと思います。
 ただ、人類全員が、自分たちの為に他の動物たちが犠牲になっている事実に対して、何とも思っていない訳ではないことも事実です。お坊さんのご説法にあるように、だから「いただきます」と感謝の気持ちで頂くのです。こう言う人々もいます。ただ、「いただきます」と言ったからといって、決して許されるわけでも正当化されるわけでもないことは言うまでもありません。
 よだかが、虫たちが自分の口の中で死んでいくのが耐えられなくなり、絶食しようと決心して最後には星になる、という物語は美しい結末ですが、現実にそうは行きません。
 人間には自己中心的な心と他者を思いやる気持ちの両方がありますが、どちらかだけ100%という人は殆どいないと思います。みんな半分半分ぐらいかもしれません。ただ、よだかのように、他者に対する思いやりの気持ちが大きければ大きいほど、自分の生存のために他者を犠牲にしなければ生きていけない、という事実は耐え難い苦しみであり、真剣に考えれば考えるほど、申し訳なく、とても自分だけの幸せを謳歌する気にはなれない、と思います。
 つまり、人間がそのような根源的苦しみから逃れて、ある程度幸せに生きていくためには厚顔無恥でいるしかない、ということかもしれません。自分のために他者が犠牲になっていても、そんなことは気にせずに、図々しく知らないふりをして、とぼけて生きていくしかないのかもしれない、ということです。
 あのよだかも、もうちょっと図々しい性格だったら、星にはならずに、鷹のいないところにこっそり逃げて、しぶとく生き残ったかもしれません。
 しかし、そもそも、自らの生存を否定することにつながるような、他者を思いやる気持ちというものを、なぜ人間は持っているのでしょうか?弱肉強食が自然の摂理であるとすれば、人間の持つそのような他者を思いやる気持ちは、明らかに自然の摂理に反するものであり、それを否定するものです。
 「自然の摂理に従って進化してきたはずの人類が、それを否定するような思いを持つに至ったということは、一体どういうことなのか?」
 これは人類最大の謎である、と言っても過言ではない、大きなテーマであると思います。いつもながら長くなってしまったので、一旦ここで区切ります。


次回は、上記の人類最大の謎に迫りたいと思います。

 

それでは、皆様良いお年を!

「シンクロニシティって何?」③

 前回、前々回と、まだ誰も解明していない「シンクロニシティ」という現象が起こる仕組みを解明するかもしれない仮説を物理学的な根拠も含めて提示しよう、という大胆な試みを図々しくもしてきました。
 今回はその続きを書きます。これまでの投稿を読んでない人は先ずはそちらからお目通し下さい。→「シンクロニシティって何?」①、「シンクロニシティって何?」②

 前回までに、「シンクロニシティ」という現象は、深層心理学の立役者であるカール・グスタフユングによって初めて提示されたものであることをご説明いたしました。
 因みに、晩年ユングがUFO目撃のニュースを聞いた時、それはある種のシンクロニシティだと彼は考えたそうです。
 彼は、UFO現象が第二次世界大戦後に急増した事に注目して、それが、近代の科学的合理主義によってことごとく陳腐化されてしまった古代からの神話に代わる新たな神話であり、2つの世界大戦を経て、人類全体が絶滅の危機にさらされている事への人類全体の深層心理に横たわる深い不安感から、人類以外の具体的な存在にある種の救いを求める代償行為であり、その人類全体の奥深い不安感と期待感が混ざって物質化した現象がUFO現象である、と考えたわけです。
 つまり、ユングはUFOは人類の深層意識が作り出した産物であるとして、実際に宇宙人が乗った宇宙船であるかどうかにはコメントしていないのであります。
 また、ユングはUFOは単なる錯覚や幻などではなく、物理的に存在するものであるとも明言していますが、その内容については明らかにしないまま他界しています。

 このままだと、ここまでこの記事を読んで下さった皆さんも消化不良で欲求不満になると思いますので、ここからは、ユングが明らかにしなかった様々な点についても、最新の物理学や様々な分野の知見も交えて、この私が僭越ながら「個人の見解」を述べさせて頂きたいと思います。
 先ずは、ユングが前提としていたのは量子力学の中でも当時主流であった「コペンハーゲン解釈」でした。この「コペンハーゲン解釈」は、極論すれば「この世界の在り方は人間の意識によって決まるという解釈」であると言えます。素粒子というものは、波動関数と言われる関数グラフに示された様々な存在の仕方の可能性が同時に共存しつつ重ね合わさった状態にあり、そのままでは存在の仕方が確定していない、つまり実在化していない状態にあるが、人間の観測行為によって、その中の一つの可能性だけが選択され、実在化すると同時に、それ以外の存在可能性は一気に雲散霧消すると考えるのが「コペンハーゲン解釈」なのであります。
 あまりにも雲を掴む様な話で分かりにくいと思いますので、ちょっとだけ分かりやすくするために、全く違う現象ですが、ちょっとだけ似ている例え話として、テレビの電波と実際にテレビに映る画像との関係を考えると少しだけ分かりやすくなるかもしれません。テレビの電波というのはいくつものチャンネルの様々な番組の情報が全部共存しつつ重ね合わさった状態で目に見えない状態で空中を飛んでいます。その電波をテレビで受けてチャンネルを選択して初めて、特定のチャンネルと特定の番組が見られるように成っています。
 「コペンハーゲン解釈」によれば、物質も本当は、テレビの電波の様に、波動関数という数式で表される情報としてあるだけで、人間の意識というテレビの様な受像機を通さないと何も姿を現さない、と言っているのです。つまり、私たちの周りの風景も山も川も地球も宇宙も全ては、人間の意識を通さないと何も姿を現さない単なる情報の束でしかない、そう量子力学の「コペンハーゲン解釈」では考えるわけです。
 ただ、人間の意識が物質の存在の仕方を確定すると言っても、「一体どの人間なのか?」「一人一人の人間の意識が違う以上、人間の数だけ違った存在の仕方がありうるのではないか?」などの根本的な疑問は不問にされたまま、この【コペンハーゲン解釈】は一番シンプルな観測問題解釈として普及していきました。ということで、ユングも、世界は一つであるという前提で、様々な問題を考えていたように思われます。
 しかし、もし世界が一つしかないと仮定すると、シンクロニシティの問題にしろ、UFOの問題にしろ、どうしても無理が生じてしまうのです。
 例えば、劇場が一つしかいない所で、その舞台上で100人分のドラマが同時に演じられることはあり得ません。100人分のドラマが同時に演じられるためには100人分の舞台と劇場が必要になります。
 ということで、上記の「コペンハーゲン解釈」が不問にしたまま、なおざりにしてしまった「人間の意識とはいったい誰の意識なのか」と言う問題は【ウィグナーの友人のパラドックス】として知られています。
 素粒子の状態は、人間が観測するまではその状態が確定しない。とすると、先の「シュレディンガーの猫」の話でいうなら、猫の生死は観測者によって決定される、とされます。ウィグナーは、自分の友人をこの観測者に任命しました。その友人が箱の中の猫の生死を確認し、その結果をウィグナーに後で伝えるという寸法です。友人は密室で猫の生死を観測し、ウィグナーは外で待機しています。さて、猫の生死はいつ決まるのでしょうか?
 「コペンハーゲン解釈」を採用すれば、猫の生死はウィグナーの友人が観測した瞬間決定されます。しかし、この友人がその密室から出ずに、情報が全く分からなかったとしたら、さて、どうなるでしょう?外で待っているウィグナーには、猫の生死は分かりません。つまり、ウィグナーにとって、友人が居る密室自体が「シュレディンガーの猫」の箱であるのです。ウィグナーもまた観測者ですから、ウィグナーがその密室に入って猫の生死を友人に確認するまで、その密室の状態は不確定なのです。それを広げていくと永遠の入れ子構造になってしまうわけです。これが【ウィグナーの友人のパラドックス】です。
 もしAさんが、ある事を観測してその状態が確定したとして、それはAさんにとっての確定であって、その結果をBさんが聞くまでは、Aさんの観測結果がどうであったかは「Bさんはまだ知らない」のではなくて、Bさんにとって「Aさんの観測結果は確定していない」という結論になるわけであります。
 つまり、人間ひとりひとりの意識が世界の在り方を確定するわけで、ということは、人間の数だけそれぞれ違った世界が存在することになります。
 このように、様々な疑問の残る「コペンハーゲン解釈」に代わるものとして、新たに登場したのが、毎瞬ごとに、あらゆる存在の可能性が全てそれぞれ別々の世界へと分岐して行っていると解釈する【多世界解釈】と言われるものです。
 【多世界解釈】であれば「人間の意識によって(波動関数が収縮して)世界の状態が確定する」と考えなくても済むのです。これは「コペンハーゲン解釈」が積み残していった問題の解決を図ろうとすれば、必然的に導き出される解釈なのでありました。
 まあ、この辺の話はややこしいので、そろそろ頭が痛くなってきた人もいるかもしれません。要するに、我々が経験している世界も宇宙も一つではなく、人間の意識の数だけ世界があり、さらにもっと言えば、あらゆる可能性の全てが実在化した無限の数の世界と宇宙が存在している、と【多世界解釈】は考えるわけです。
 この【多世界解釈】の無理の無いところは、人間の意識が何かを生み出す必要は無い、というところです。
 ありとあらゆる可能性は必ずどこかの世界で実現している為、要は、それを経験するためにはその世界に意識が繋がれば済むのです。我々が想像しているような宇宙人が乗った宇宙船に乗りたければ、それが実現している世界に意識が繋がればいいのです。
あるいは、宇宙人は、実は宇宙船など使っておらず、あの光る物体は宇宙人が作り出したイリュージョンである可能性もあるわけですが、自分がそうとしか思えなければ、そうなっている世界で宇宙人が作り出したイリュージョンとしてのUFOを見ることが出来るかもしれません。
 つまり、自分がそう思っている世界に自分の意識が繋がっていく確率が一番高いので、シンクロニシティのように、自分が考えていたことと全く同じことを現実で経験するのも、自分の意識がそういう世界を選択しているからなのかもしれないのです。
 ただし、ここで注意しなければならないのは、自分の意識が選択すると言っても、いつも意識できているいわゆる顕在意識が選択するわけではないようだということです。毎瞬毎瞬世界を選択して行っているのは、どうやら潜在意識以下の部分であり、仏教で言う所の阿頼耶識にあたる、一番奥にある深層意識が選択している可能性が高いという事です。
 このように、元々、我々が経験している世界と言うのは、深層意識も含めた自分自身の意識が選択している世界なので、思ったことや考えたことがそのまま実際に起こるのは、むしろ当たり前の事であるとも言えるのですが、通常はむしろ、そのような事が起こらないようにブレーキが掛かっていると考えた方が良いのかもしれません。
 我々の顕在意識と深層意識との間にはフィルターの様なものがあり、そのフィルターのお陰で、顕在意識で考えていることがいきなり現実化したりしないようになっていて、世界は、顕在意識が預かり知らない所で、実はひっそりと深層意識によって選択されている、というのが本当の所のようです。
 とすると、経験世界で起きる出来事というのも、上述の通り、自分の深層意識が選択している世界なのですが、それを経験する(顕在意識としての)内面世界の方は、自分が選択したとは思っていないので、客観的に物事が起こっていると思えているだけだと言えます。
 故に、シンクロニシティと言うのは、その顕在意識上の内面世界での考えや思いが、深層意識とのフィルターが甘くなっている時に、そのまま経験世界の選択原理になってしまっている時に起こる現象、とも言えます。
 だから、思った事や考えたことがそのまま経験世界で起こってしまうのです。なので、その深層意識とのフィルターやブレーキがあまりにも甘くなってしまうと、思った事や考えたことが、どんどんと経験世界で起こってしまうので、先に言いました様に、内面世界と経験世界の区別がつかなくなってしまって、混乱状態に陥る人も居るのだと思います。
 それが酷くなると、いわゆる統合失調症になってしまう人もいるようです。あのユング自身も一時、統合失調症のような状態が続いた時期があったようです。
 ということで、シンクロニシティは非常に面白い現象ではありますが、通常はそんなことが起こらない方が健全な状態なのだと思っておいた方が良さそうです。
 健全な人生とは、深層意識が選択した世界において、顕在意識が何を学ぶかが大切なのかもしれません。そこで学んだことや気づいたことが、ゆっくりと深層意識へと反映されて行って、自然と深層意識が選択する世界の状態もより良いものとなって行き、徐々に徐々に状況がより良い状態へと好転していく、というのが健全な人の人生の在り方なのであると思います。
 従って、現在、巷で流行っている金儲け主義の自己啓発セミナーなどが宣伝しているような、顕在意識が「金持ちになる」という思いを念じ続けて、その思いを深層意識にも浸透させて、結果的に、自分が金持ちになった世界を選択できたとしても、それによって、一体何を学べたのかはいささか疑問なのであります。
 いわゆる「引き寄せの法則」などと言うものも、単に願いが叶うことは、欲望が満たされたことと同じ訳ですが、一つの願いが叶ったら次の願いを願うことになり、結局、永遠に未だ叶わない願いが残ることになるわけで、そのような生き方が本当に人を幸せにするのかどうか、僕は疑問に思わざるを得ないのであります。
 シンクロニシティなどに特に関心のある方にとって、こういう側面を考えることも大切なのではないかと思いまして、あえて書かせて頂いた次第であります。

「シンクロニシティって何?」②

 前回は、シンクロニシティという現象を最初に取り上げたスイスの心理学者ユングとその心理学について、超簡単にご紹介いたしました。
 先にもご紹介いたしました様に、ユングフロイトの一番弟子ではありましたが、フロイトのあまりにも唯物論的な考え方に次第に疑問を抱く様になり、最終的には大喧嘩をして決別します。その大喧嘩をしてユングの怒りが頂点に達した時、部屋にあった木の箱が大きな音を出して割れたということです。
 それ以前から、自分の心の中での思いや出来事と、実際に起こる事との不思議な関連性に気づいていいたユングは、人間が実際の経験として知覚することと、心の奥底にある思いとには明らかに意味の上での繋がりがあり、それは物理的な因果律では説明できない仕方で、現実での現象となって現れると確信するに至ります。
 それは1930年頃でしたが、その頃というのは丁度、物理学の世界でも、それまでの世界観が根底から覆るような大変動が起こりつつある時でした。
量子力学という、これまでの常識を根底から変えてしまうような、全く新しい物理学が誕生し発展しつつあった時期だったのです。量子力学は、物の究極の姿である素粒子というものは、人間によって観測されるまでは、その存在の仕方が確定しない、という事実を発見したのであります。
 それまでの物理学では、素粒子も含めたあらゆる物質は初めから存在しており、人間がそれを観測しようがしまいが、そんなことには関係なく、ずっと存在してきたしこれからも存在し続ける、と思われていました。そして、今でも、殆どの人はそう思っていると思います。
 ところが、量子力学が描く世界像によれば、素粒子は人間によって観測されるまでは、あらゆる存在可能性が同時に共存する状態にあるだけであり、実在しているとは言えない実在以前の状態にあり、人間の観測行為によって、その中の一つの可能性だけが選択されて実在化する、という実験結果を示したのです。
 つまり、それまでのニュートンに代表されるような古典物理学では、宇宙も物質も太古の昔から存在しており、人間はつい最近になって、この広大な宇宙の中の地球という小さな星の表面に誕生したに過ぎないと思われていましたし、恐らく、今でも多くの人はそう信じていると思います。しかし、新しく誕生した量子力学は、物質を構成している原子は更に小さい素粒子からできており、その素粒子は初めから決まった状態にあるわけではないという事を発見したのです。
 例えば、原子は、原子核とその周りをまわる電子から構成されていますが、電子というものも、初めから決った状態で原子の周りを周っているのではないことが分かったのです。もし、仮に電子が決まった状態にあるとすると、すぐにエネルギーを使い果たしてしまって一秒たりとも存続できないことが分かったわけです。
 では、どのような状態にあるかというと、無数の存在の可能性があるだけで、人間が観測するまではどの状態にも決まらない、ということが分かったのです。しかも、そういう状態にあるのは電子だけはなく、原子核を構成している陽子も中性子もそうで、つまり物質を構成する全ての要素は、人間が観測するまでは、存在の仕方が決まらない状態にあることが分かったわけです。
 ということは、それらの素粒子から構成されているこの宇宙そのものも、実は人間が観測するまでは、存在の仕方が定まらない状態にあるわけで、無数の存在の仕方の可能性として存在しているだけで、いわば存在以前の状態にあることが分かったわけです。
この量子力学の立役者の一人に、ユングと同じスイス人のヴォルフガング・パウリという人がいました。このパウリとユングは仲の良いお友達だったのです。そして、この世紀の大物理学者と世紀の大心理学者は共著で本も書いているのです。
 ということで、ユングはパウリから、当時最先端であった量子力学の世界観を聞いており、自分自身がこれまでに経験してきたような、自分の意識と周りに起こる出来事との意味深い繋がりが単なる気のせいではなく、物理学的にも根拠のあることなのかもしれない、と思うようになったと思われます。
 つまり、物理現象というのは、単に物質同士の因果律によって生じるだけでなく、人間の意識の働きによっても生じうるものであると思い始めた…そう思います。
このような確信をもって、ユングは、人間の意識の内容が現実の物理現象の起こり方に反映されるという前提を持って、意識で考えたことと実際に経験することとの「意味のある偶然の一致」という意味でシンクロニシティという現象があることを明らかにしたのであります。
 ユングは「心の中の深い思いは物質化する」と考えていたようです。だから、心の中で考えていたことと実際に経験することが一致する、つまりシンクロニシティが起こると考えたようです。
 しかし、もし人間の意識が世界の在り方まで決定しているとすると、あまりにも人間というものが重要になり過ぎますし、この考え方を突き詰めると、結局、人間の意識が宇宙の始まり方まで決定していることに成るので「ちょっと無理があるのではないか?」と誰しも思うと思います。
 ということで、その様な無理な結論を避けるために、唯一の解決策として提示されたのが【多世界解釈】と言われるものです。この【多世界解釈】というのは、よくSFなどに出てくる並行宇宙、あるいは並行世界の元となった考え方です。この考え方によれば、素粒子もそれからなる物質も宇宙も、無数の存在の可能性がそれぞれ別々の世界となって枝分かれしながら実在化している、と考えるのです。

 次回はこの多世界解釈について詳しく見ていきたいと思います。 

To be continued…

シンクロニシティって何?-①

 今年もそろそろレコード大賞の季節がやって参りました。

 レコード大賞と言えば、去年は乃木坂46のシンクロ二シティが受賞しました。

 しかし、シンクロニシティと言っても、その意味が虫の知らせみたいなもんだと了解している人も少なくは無いと思いますが、そもそもなんでそんな現象が起こるのか、それを解明した人は未だいません。

 そこで、図々しくも、それを解明出来るかも知れない仮説をここに提示ようと思い付いた次第であります。当然ながら滅茶苦茶長くなるので、何回かに分けて書きます。今回はとりあえず、さわりだけにしておきます。

 ということで、では、そもそもシンクロニシティとは一体何なのでしょうか?

 世界水泳を見に行ったら、いろいろやっていて、どの競技を見に行こうか彼女に相談したら「シンクロにして~!」と言われたので、シンクロを見に行ったという話ではありません。

 シンクロニシティとは共時性と訳されていて、時に「意味のある偶然の一致」あるいは「因果的には全然繋がりのない二つ以上の事象が意味的な繋がりをもって経験されること」とも説明されています。

 もっと分かり易く言えば、日常的に経験される「噂をすれば影」とか、バッハの事を考えていたら通り過ぎた店からバッハの音楽が聞こえて来たとか、UFOの話をしていたら空にUFOらしきものが飛んで行ったとか、まあ、とにかく皆さんの中にも、日常的に、あることを考えていたら、その考えていたことそのものが目の前に登場したとか、現れたとか、目に入ったとか、聞こえたとか、タイミングの良過ぎる、不思議な偶然の一致を経験したことのある人はいくらでもいると思います。

 シンクロニシティという現象を最初に取り上げたのは、あのかの有名なカール・グスタフユングという人で、彼はあのフロイトの弟子にして、フロイトとの決定的な世界観の違いから、最後は大喧嘩して、後にフロイトを遥かに超える壮大なる深層心理学の一大体系を作り上げた大天才であります。

 とてもとても複雑で長くて難しい話を、超簡単に端折って言ってしまうと、彼は、人間の日常的な経験においては、意識の深層部分からの投影の影響が極めて大きく、人間は、自分で意識できていない自分自身や自分の根っこの部分からの様々な思いと、一つ一つ向き合って理解して受け入れていくことで本当の自分らしさを回復できる、と考えた人です。

 分かり易い例を挙げれば、最近話題になっている東京・青山にて青少年の保護施設を建設することに対する住民反対運動です。ある記事によると、住民反対運動の主要メンバーは外から青山に引っ越してきた人が多いそうです。先祖代々その地に住んでいるような、元からの住民で反対運動に参加する人はあまりいないそうです。つまり、新しく青山に移り住んだ人たちというのは、やっと成功して(勝ち組になって)憧れの青山に住めるのに、なぜ(かつての自分が属していた)社会的に立場の弱い者(負け組)を受け入れて青山が象徴する価値を下げなければならないのか、なぜ、彼らが自分たちのような努力なしに栄光の地に住めるのか、そういうことが根っこの部分では許せないのではないのでしょうか。

 このような人は、自分が否定して認めたくない自分自身の様々な嫌な部分を、そのまま地で行っているよう人に出会うと、どうしても認めたくないし排除しようとするのです。

 まあ、そういうことで、ユング心理学とは、表向きの自分と認めたくない自分が、意識と潜在意識とに分かれてしまって、不安定で緊張状態にある分裂した自分から、本来の自分自身の姿を一つ一つ素直に認めて、その自分と和解していくことによって、全ての自分の姿を受け入れ、本来のありのままの自分を回復することによって、あらゆる否定的な妄想や衝動から解放されて、円満で充足した生をとりもどすことを目指すものです。(とはいえ、最近流行りのニューエイジ運動には、ユングの心理学を極端に捉えた思想もあるので注意が必要です。)

 何だかユング心理学の概説をしただけで随分と長くなってしまって、これから本題のシンクロニシティの話をしだすと限りなく長くなってしまうので、ひとまずここで区切って、この続きは続編をお届けすることに致します。

 

 次回は、いよいよシンクロニシティの本質について考察してみます。

 

 乞うご期待!

AKB48と言語ゲーム

 こないだ久しぶりにテレビでAKB48を見ました。ちょっと前に比べて随分とメンバーが変わってしまって、今や知らない人の方が多くなった感じがしました。もうちょっとすると、全部入れ替わっているんだろうなあと思います。「メンバーが全部入れ替わっても、変わらずAKB48AKB48であり続けるということは、一体、AKB48とは何なのだろうか?」とふと思ったわけであります。

 要するにAKB48とは名前だけ、あるいは名前とそれに伴うコンセプト(概念)であり、AKB48という変わらぬ実体を有するものがあるわけではなく、実際の中身はどんどんと入れ替わっていくものであるということであります。
 同じように、かつて長嶋茂雄が永遠に不滅であると言った「読売巨人軍」というチームがありますが、長島が居た頃の巨人と今の巨人とでは選手もコーチも監督も全く違います。何一つ同じ同一性を保った人も物も見当たりません。今の巨人に限ってみても、絶えず選手は入れ替わっています。常に同一性を保った「読売巨人軍」などと言うものは存在しない訳です。唯一永遠に不滅かもしれないものは「読売巨人軍」という「名称だけ」かもしれません。というか、そもそも「読売巨人軍」といものは初めから「名称だけ」のものであり、ある特定の野球選手の集まりに「読売巨人軍」という名称を勝手につけただけのものであるというのが正解かもしれません。つまり、永続できるものは「名称」あるいは「概念」だけであり、それは人々の頭の中だけで永続できるのであって、実際の選手たちは絶えず変化しているのであり、不変の同一性もないということであります。
 しかも、「読売巨人軍」という概念自体は実在するものではなく、人々の頭の中での単なる取決めに過ぎないので、明日から「朝日小人軍」という名称に変更されれば、「読売巨人軍」は瞬時に消えてなくなるのであります。
 野球チームが単なる名称だけの仮のものであるのは当たり前の話だけど、実際の一人一人の選手達は実在するだろうと思われるかもしれませんが、理屈は同じだと思います。
 巨人にはかつて松井秀喜という選手がいましたが、松井選手の体は60兆個ほどの細胞で構成されており、約1年ほどで全部入れ替わります。「読売巨人軍」が数十人の選手から構成されていて、20年ほどで全部入れ替わるよりも、早いペースで変化しています。では、松井秀喜という人は存在しないのかというと、「読売巨人軍」と同じような意味で存在しているのです。
 ただ、松井秀喜という永遠に不変の同一性を持った実体のようなものは存在しない、ということです。そもそも何が松井秀喜の本質であり実体であるかなど定義できません。10年前は世界に名だたるパワー・ヒッターだった彼も今はそうではありません。パワー・ヒッターが松井の本質であるわけではありません。実際の彼は毎日変化しています。従って、変わらない松井秀喜の本性みたいなものは無いのかもしれません。将来、実業家・松井秀喜になるかもしれませんし、落ちぶれてホームレス・松井秀喜になるかもしれません。そもそも、その人に特定の本性があって、それが永遠に変わらないのであれば、良くも悪くもなることは出来なくなります。特定の本性も本質も不変の同一性も無いからこそ、人間はどうにでも変われるのかもしれません。
 というようなことを考えていたら、近現代のオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインの【言語ゲーム】の話を思い出しました。
 【言語ゲーム】とは、すべてのもの一切を心的なものも物的なものもおしなべて言語的存在とみなし、言語を離れたもの、言語以前に実体としてあるものは一切存在しないという考え方です。
 例えば、椅子というものを例に挙げると、椅子を良く見てみると、実際にあるのはスポンジと布と鉄とプラスチックを組み合わせたものがあるだけです。それらいくつかの素材が、特定の関係性で組み合わせられたたものを我々は、便宜上「椅子」と呼んでいるだけであって、椅子というのは我々の頭の中、つまり「概念」として存在しているだけです。その証拠に、椅子という「概念」を持ってない人が「椅子」を見た時には、自分で考えて「机」として使うかもしれません。つまり、さまざま素材の組み合わせの関係性は、それにどんな意味づけをしようが、それはその人の勝手であるということです。スポンジと布と鉄とプラスチックを組み合わせたものを「椅子」だと思うか「机」だと思うか、あるいは「乗って遊ぶおもちゃ」だと思うかは、本来各人の自由ですが、社会の大多数の人が共有する「意味づけ」または「概念」を受け入れたほうが、実生活上便利であると言うだけです。しかし、大多数の人が共有する「概念」だからと言って、それを不変の本質とするものが実際に実在するわけではないということです。
 ところが、子供の頃より我々は、これらの大多数の人が共有する「意味づけ」あるいは「概念」を「言語」を通じて頭の中に刷り込んでいきますので、往々にして、それらの概念自体が、それに対応するものの「本質」あるいは「不変の同一性」であると勘違いしてしまいがちです。いわば「固定概念」とも言えるものです。
 「固定概念」などという日本語はないのかもしれませんが、いわゆる「固定観念」が拭いきれない強烈な思い込みを伴っている病理的な言葉であるのに対して、それほど病的ではないという意味で、また「既成概念」とは違う意味で、あえてここでは「固定概念」という言葉使うことにします。
 そうして我々は、それらの無数の「固定概念」によって、がんじがらめになって身動きが取れなくなることも、ままあります。
 本来「便宜的な仮のものに過ぎない」概念によってがんじがらめになるというのは、冷静に考えれば馬鹿げた話です。
 上記の例は、「椅子」であったり「人間」であったり、様々な要素が複雑に組み合わされたものでしたので、それらの組み合わせが概念であるというのは分かるが、もっと基本的な要素自体は実在するのではないか、と思われる方もいるかもしれません。
 では、「水」というものを例に挙げて考えてみましょう。実体論の立場の人は、水という性質なり本質を持った何かが実在すると考えます。しかし、今でこそ、常識になっていますが「水」はH2Oという水素原子2つと酸素原子1つの組み合わせからなる水の分子から構成されているということがわかっています。つまり、「水」という不変の同一性をもった実在があるわけではなく、水素原子2つと酸素原子1つの組み合わせと、摂氏1℃から99℃という環境条件によって現す姿を、我々人類は「水」と呼んでいるだけなのです。つまり「水」というものは、水素原子と酸素原子との特定の関係性が、特定の温度環境との関係性によって現した一つの様態に過ぎず、それらの関係性の組み合わせが現した姿以外に「水」という実在があるわけではありません。
 その証拠に、温度環境がO℃以下になれば、たちまち個体の氷になりますし、100℃以上になれば気体になって姿も見えなくなってしまいます。つまり、H2Oという水素と酸素の関係性が「水」と我々が名づける様態で居られるのは、ごく限られた条件の元(1℃~99℃)であり、同じ要素でも条件が変われば表す姿は変わるということです。
 このように、この世のすべてのものは要因と条件によって姿を現し、そのような組み合わせが変われば現れ方も変わるということです。
 では、水素原子や酸素原子は実在するだろう思われるかもしれませんが、それらは陽子・中性子・電子など素粒子の組み合わせです。その素粒子クオークの組み合わせで、クオークも何らかの振動体の相互の関係性によってその性質を現すとされています。しかも、その振動体というものはもはや物ではなく、一種のエネルギーの塊のようなものでそれらの相互の関係性によってさまざま性質が現れると言うのは、正に存在するのは関係性のみであるというものの見方が、現代物理学によって証明されたようなものです。
 以上、ずっと抽象的な話が続きましたので、この辺で上記の抽象的な話を我々の実生活に当てはめて考えてみたいと思います。
 ここにAさんという人がいます。Bさんという女性と付き合っています。つまり、AさんはBさんにとっての「彼氏」です。BさんはAさんにとっての「彼女」です。しかし、やがて、関係がこじれて、BさんはAさんと別れることにしました。しかし、Aさんは納得せず、Bさんを執拗に追い掛け回します。かつてBさんにとって、Aさんは「愛すべき彼氏」だったのが、今や恐るべき「ストーが-」であり、ほとんど「犯罪者」です。ところが、Aさんは実家では年老いた両親を介護しており、ご両親にとってAさんは「最高に親孝行な息子」です。Aさんは会社では「大変優秀な社員」で、上司にとっては「従順な部下」で、部下にとっては「最悪な上司」で、仲のいい同僚にとっては「仲間」であり、仲の悪い同僚にとっては「最大の敵」でした。
 では、どれが本当のAさんなのでしょうか?実は、どれも本当のAさんなのです。Aさんと他の人との関係性によって、同じAさんが「犯罪者」になったり、「最高に親孝行な息子」になったり「大変優秀な社員」になったり「従順な部下」になったり「最悪な上司」になったり「仲間」になったり「最大の敵」になったりするのです。
 Aさん自体が本来不変の特性を持っているわけではなくて、Aさんと他の人との関係性によってその意味付けが変わってくるということです。
 意味付けを変えたかったら関係性を変えればよいということです。あるいは意味づけを変えることによって関係性が変わることもあるかもしれません。
 Aさんが本質的に「悪人」であるなら、Aさんは誰にとっても「悪人」であるはずで、永遠に「悪人」であるはずです。誰かにとって「最高にすばらしい」人であるはずもありません。しかし、現実には相手によって全く違った姿を示し、意味づけも全く違ったものになるということです。
 このように、物事にも人にも不変の本性なり本質などというもの無く、あくまで自分とその人あるいはその物事との関係性が存在するだけで、その関係性に自分がどのような意味づけをするのかは、全くの自分の自由であるということです。
 このようなものの見方をより実生活に役立つようにするには、それを自分の周りの実際の人間関係に当てはめてみるといいかもしれません。
 普通、私達の日常生活のおいては、色んな人間関係が有ります。良い人もいれば意地の悪い人もいるし、敵もいれば味方もいる。しかし、本当は、全ての人も出来事も、あくまで本来特定の意味は持っていません。「良い人」も「意地の悪い人」も「敵」も「味方」も「悪い出来事」も「良い出来事」も、全て自分との関係性においてそう言う風に見えるだけで、本来はどんな意味付けをしようが全くの自由なはずでした。
 例えば、自分の悪口を言ったりあら捜しをして足をひっぱったりする人がいれば、普通多くの人は、その人に対して「敵」という意味付けをします。そして、一旦、敵という意味付けをしたら、正にその人のやる事はすべてネガティブな敵対行為そのものとしか思えなくなります。そして、その人を憎み、憎んでもどうにもならないしストレスがたまり、自分自身が大いに苦しみます。
 しかし、自分がいくら憎んでも相手は痛くも痒くもありません。だからこそ、余計に憎さが増幅していきます。この様に、本来どんな意味付けをしても自由であるはずの相手に対して、勝手に自分で「敵」だと決めて、その結果として自分自身が多いに苦しむ事に成る訳です。まさに、一人相撲です。
 それよりも、敵という意味付けをする代わりに、「あの人のお陰で、自分の足らないところが気付けるのだ、自分の行動に気をつけられるようになる。考えて見れば、恩人なのだ。」と言う風にポジティブな意味付けをすれば、もうその人が何をしようが、全て自分の為に成る事なので、あら捜しをされればされる程自分は成長できるし、悪口を言われれば言われるほど、自分が他の人にどう思われているか気付けるのでどんどん自分が成長できます。
 このように、相手のどんな行為も、自分のそれに対する意味付け次第でどうにでも受けとれる訳なので、嫌なものがあるのなら初めからそのような意味付けをしなければいい訳です。
 とは言っても、これはあくまで理屈上の話であって、人間は理屈通りに考えられるものではありません。そういうものの見方で言えばそうなるということであって、実際にすぐ明日から180度違った意味づけができるかというと、そうはいかない場合の方が多いのではないかと思います。
 様々な原因と条件によってできあがってしまった人間関係なので、先ずはそれがネガティブな展開の仕方をしてしまった理由を理解することが先決なのかもしれません。その為には、相手との充分な意思の疎通が必要不可欠になるでしょう。その上で、少しずつ相互の相手に対する意味づけの仕方が変化しはじめて、しだいに人間関係も改善していくと言うのが、現実的な方法なのかも知れません。
 いずれにしても、人間というものは、本来、本質的に善人も悪人も立派な人も駄目な人もいません。皆、いろんな条件と関係性の中で時には善人でいられたり、悪人になってみたり、立派なこともしてみたり、どうしようもなく駄目な人間になったりするということです。
 すべては、一瞬一瞬の選択と判断で変わります。ずっと周りから尊敬されていた人がある日突然電車の中で痴漢をして犯罪者になるかもしれませんし、同じその人が、その経験を機に心底心を入れ替えて再びより立派な人になったりするものです。
だから、「あの人は立派な人だ」とか「あいつは駄目な奴だ」なんて言葉は、せいぜい有効期限は1日ぐらいで、明日はどうなるか誰にも判りません。
 これを、ネガティブに考えれば「誰も当てにならない」とも言えますが、ポジティブに考えると「どんな人でもよりよく成れる可能性はある」と言うことでもあります。
 ということで、長々と回りくどい話をしてきましたが、要するに「言語ゲーム」というものの見方は「あらゆる固定概念・思い込み・こだわりから自分自身を解放するものの見方」であると言えるもかもしれません。
 それが、西洋の哲学が2000年以上かけて到達した最新の結論のようなものなのですが、実は、これとほとんど全く同じことを2000年以上も前から言っていたのが、仏教の「空」の考え方だったのであります。
 『般若心経』などで有名な「色即是空」の「空」とはそういう意味であり、2世紀ごろの龍樹というインド人仏教僧が、上記のウィトゲンシュタインと殆ど同じことを言っていたというのは驚くべきというか、西洋の哲学は2000年かけてようやく仏教の足元に追いついたと言えるのかもしれません。